She is a Diamond

 「エビータ」というとマドンナ主演の映画でご覧になった方が多いかもしれないが,もともとはアンドリュー・ロイド・ウェーバーとティム・ライスの黄金コンビがつくった舞台用のミュージカル(ロックオペラ)である。「キャッツ」とか「オペラ座の怪人」とかと同じ路線だ。物語は極貧のなかから身をおこしてアルゼンチン大統領夫人になったエヴァ・ペロン,通称エビータの実話に基づいている。映画は,マドンナが16歳のころのエビータまでやってるのにちょっと無理があったが,それなりに面白かった。曲がいいし,アントニオ・バンデラスがかっこよかったし。
 このミュージカルのなかで,本筋にはあまり関係ないのだけれど,ナカムラの好きな場面がある。大統領夫人になったエビータが政治の舞台に登場し,影響力を持ち始めたときに,側近たちが大統領に,「エビータなんて見てくれのいいだけのただの女で,単に飾りものにすぎないじゃないか」とつめよる。それに,大統領が答えて言うセリフ,「たしかに彼女は役にたたない飾りかも知れない。しかし,彼女はダイアモンドだ。」

 いいと思いません? 以下はこの言葉に対するナカムラの思い入れ:

 科学は役に立つもの,と思っている人は多い。「中村さんって,なんの研究してんの?」ときかれて,「宇宙空間プラズマ物理です。オーロラがなぜできるかとか,太陽風がどうのこうのとか,そんな関係です。」と答えると,「それって何の役に立つの?」ときく人が結構いる。そういうとき,たとえば「いや,役にはたたないんだけどさ,人間って宇宙がどうなってるか知りたい欲求があるわけで,ごにょごにょ・・・」などと,さえない答えをするわけだが,クールに「役には立たない。しかし,それはダイアモンドだ。」とか答えられたらカッコイイですよね。

 研究が何の役に立つのか,という話題でよく引かれる逸話はファラデーの話で,彼が電磁誘導を発見したとき,それが「何の役に立つの?」ときかれて「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つのかはわかりません。」と答えたそうだ。いま,身の回りにある電気機器でファラデーの電磁誘導なしに成りたっているものは懐中電灯くらいだろうか。つまりこの逸話は,今は何の役にたつかわからないものでも,研究をしておけば,将来はきっと人類の幸福に貢献するはずだ,科学ってありがたいね,というお話なのである。
 ナカムラはこの話がだぁぁぁいっきらいだ。ファラデーの答えそものもが嫌いなのではない,その解釈がいやなのだ。だって,ファラデーは,いつか洗濯機や電車のモーターに役立つかも知れない,なんてために電磁誘導の研究をしていたのでは決してないはず。「それまで別物と思っていた電気と磁気がなんらかの法則でつながっている,それはなんだろう,知りたい! 理解したい!」という知的好奇心がファラデーの動機だったはずだ。ナカムラは,もし,電磁誘導が何の役にもたたなくても,それは「ダイアモンド」だと思う。電化製品にかこまれて暮らしている現代でなくても,ファラデーの理論はそれが生まれた時点で,すでに最高の知的冒険としての価値をもっていたのである。

 もし,「役に立つかどうか」の尺度が,科学をはかる唯一のものだとすれば,たとえばゲーデルの不完全性定理(注)とかアインシュタインの一般相対性理論とかは,カスにすぎないはずだ。でも,彼らの成果は人類の知性のなかで第一級の「ダイアモンド」なのである。人間にはものを知りたいという欲求がある。あの空の向こうにはなにがあるのだろう? 人は死んだらどこへ行くのか? この大地はどうやってできたのか? それを知ったからと言って明日からの生活が変わるわけではない,しかし,明日からの人生はちょっと変わるかも知れない,そういう知識を本能的に求めている。たとえば,「宇宙はビッグバンから始まった」ということを知っている人生と,そうでない人生はちょっと --- ほんのちょっとだけど --- 違っていると思いませんか?
 現代の職業が細分化した社会では,その「知りたい」という欲求をみたす専門の職業が存在するわけで,それが,科学者(注2)なのであろう。原始社会では,いつもは同じ農耕をしている村の仲間のなかで,歌のうまいものが村祭りで歌ったりしていたが,現代では,その部分の需要を満たすために,音楽産業という巨大産業が存在する。科学も同じである。

(注)“自然数論の公理系Nが無矛盾ならば、 自然数論の公理系Nにおいて 「自然数論の公理系Nにおいて数学の命題は証明可能である。」という命題も 「自然数論の公理系Nにおいて数学の命題は証明不可能である。」という命題も 証明不可能である”という定理。なんのこっちゃらようわからんが,とにかく数学の根幹にかかわる大問題である。もっと詳しく知りたい方はサーチエンジンで「ゲーデル」と探してみるといっぱいひっかかってきます。[2001年7月3日附記] 実はここでのゲーデルに関する記述は正確ではないとのご指摘をいただきました。くわしくはこちらを。
(注2)もちろん,「役に立つ科学」をやっている科学者もいっぱいいるわけですが,ここでは役に立たないほうを相手にしています。

 ということは,われわれの義務は「ダイアモンド」と言うに足るような科学的成果をあげるように日々努力することである。もし,役に立たないのならば,ダイアモンドのように美しいものしか価値はないはずだ。そう考えてまわりの研究者を見ると,なにか釈然としないものがある。今まで掘っていた鉱脈がだんだん枯れてきたので,小粒の削りカスのようなやつでも「おお,これはすばらしい」などと,お互いに評価しあったり,ダイアモンドが出なくなったので,手近なちょっとみてくれのいい石をひろってきて,「これだってダイアモンドと同じ価値がある」とか言ってみたりする。それで適当に論文を書いて予算をとってきて,とってきた予算で,またしょぼい石を掘りだして,「ま,それだって科学成果だし,俺って科学者としてそこそこやってるでしょ? さ,お仕事,お仕事」っていうのは多いんじゃないかな? そして最低なのは,そういう活動が「科学研究」だと信じてしまって疑念をはさまないやつらだ。
 さらには,ダイアモンドを見つけるのが目的なのに,その手段にすぎない掘削小屋の設備やら,仲買の市場などを立派にすることに腐心して,肝心の鉱脈探しは二の次,というような状況が多く見えるのはナカムラのまわりだけなのかな?

 子供のころから憧れていた科学者って,そんなもんじゃないはずだ,みんな本当にそんなことをやりたくて科学者になったのだろうか? しかし実際に科学を職業にしてしまうと,一生かけてみつかるかどうかわからない鉱脈を探して野山をさまようより,とりあえず,もう枯れそうな鉱脈でも,まわりをちょこちょこ掘って,小粒のダイアモンドを見つける方が安全確実だ。それで給料はもらえるし,学会のなかでもそこそこ評価される,だって,まわりのやつはみんな同じようなのばっかりだから,小粒のなかでちょっと大きいのをみつければいいわけだ。
 ホーガンの「科学の終焉」など,もう,人類の科学的発見の大部分は過去にされちゃってて,あとは「落ち穂拾い」的研究しか残ってないんじゃないか,という議論がある。でも,それは実は,今知られてる鉱脈がだいたい堀り尽くされたということだけで,みんながのたれ死に覚悟で山の中をさまよって探せば,まだまだいくらでも鉱脈はみつかるのかもしれない。科学研究の場合,本物の鉱脈探しとちがって,実際にはのたれ死にはしなくてすむし。

 ナカムラの夢は,ある日,大鉱脈を発見して,そのとき計算していたノートの余白に「She is a Diamond!」と書き入れることである。めちゃかっこいいと思いません? これはナカムラふぜいには大きすぎる夢で,たぶん,そんな日は来ないかもしれないが,とりあえずそういうことを夢見て毎日研究するのはハッピーなことだと思ってます。


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2001/03/16