ああ,
前回からまた時間がたってしまった。何を書いていたか忘れてしまった方も多かろう(*)。なんだっけ,と前のページを読み返してみて,ああ,そうです,音楽だとか料理については,自分の作品というか生成物というか,とにかく造ったものについてうだうだ語るのはカッコ悪いが,科学研究については語らないとわからんのでは,という話であった。あいかわらず,要約するとすごく短くなりますね。圧縮率高し。
*しかし,考えるに,これはナカムラにとって,前回と今回の時間があいてしまったというだけであるな。前にちょっとふれたが,書いた文章については読み手の時間と書き手とは一致しないので,前回から連続してこの文章を読んでいらっしゃるかたもいるに違いなく,そういう人にとっては,これはマヌケな出だしである。ページの下端に書いてある日付をみて,御高察願いたい。
ということで,今回はこの「科学研究について語る」ということについての問題点が話題。まず「科学については語らないとわからない」と言うのは正しいが,逆は必ずしも真ならず,語ればわかるかというとそうでもないのである。前回例に出した,世界中で20人しか理解できない数学理論なんてものを,たとえば,2時間のテレビ番組なんかで,素人にわかるように説明できるだろうか?
しかし,これは何段階かある「わかる」ということの程度をごっちゃにしているのかも知れない。音楽ならば,たとえばラフマニノフのピアノ協奏曲が弾ける人間は,世界中にごく少数 --- でも20人よりは多いだろうな --- だが,それを聴いて楽しめる人間は数多い(ナカムラもそのひとりです)。それと同様ないい例は,近年に証明されたフェルマーの定理で,この証明を全部理解できる人間は,それこそ世界に20人くらいしかいないのではなかろうか? しかし,古代ギリシャのディオファントスから始まる「最終定理物語」は,ラフマニノフの協奏曲と同じくらい,人を魅了するのである。
だが,世の中にはラフマニノフのような名曲ばかりではなく,まったくくだらない駄曲も多数存在することも事実である。研究についても全く同じで,世の中には「駄研究」も多数存在する(**)。つまり,語るに足らぬ研究というわけである。
*これに関する本はサイモン・シンのやつがダントツに面白いですね。余談ですが同じ著者の近著「暗号解読」もめちゃおもしろかった。
** 自慢じゃないが,ナカムラのこれまでの研究も,もちろん,このカテゴリに入る。本当に自慢じゃないな。Life is a bitch, sometimes...
さらに「科学を語る」という話題の問題点であるが,このページに限って言うと,もっと大きな問題が存在する。それは他でもない,前回から時間をおいているうちに,ナカムラがこの話題をあんまり面白いと思わなくなってしまったことだ。上の文章もなんかなげやりで,やっつけ仕事風でしょう? 説得力もイマイチ。うーん,困った。前回書き始めた頃は,なかなか興味深い話題と思っていたのだが,考えれば考えるほど,いろんなところでいろんな人が言っている話の焼き直しみたいな感じで,書いていて気合いがはいらない。しょうもないジョークも出てこないし・・・。
どうしようかなあ,などと考えているところに,前に書いた「
連続体は必要か?」という話題について,クマさんからのメールが届いた。わたりに船と,今回はこれを紹介させていただいておわりにしよう。チョー手抜き!(ちなみに最近は堅い話題が多かったので,次回はやわらか路線の話題にしようと思っています。)
思いつき、ないし妄想(「連続体は必要か」考)
量子力学の部分は案の定ようわからんかったが・・・・・
そもそものタイトル「連続体は必要か」を眺めている内に、論理学のすごく基本的な
定理を思い出した。Skolem-Lowenheim の定理という。
ナカムラ注:Lowenheimの「o」はドイツ語の点々(ウムラート)がついた
やつです。したの方にでてくるGodelも同じ。これ,日本語のhtmlではどう
やって書けばいいのだろう?
第一階述語論理上の任意の公理系には可算集合からできたモデルが存在する。
というものである。従って、公理的集合論も第一階述語論理上の公理系であるから、
可算モデルが存在する。ところが、公理的集合論内部では非可算無限の存在が証明で
きる(というか、それが存在することが証明できるような公理をはじめから立ててあ
る)。可算モデルの中に非可算無限の存在? この一見ヘンテコな事態をさして、
「Skolem-Lowenheim の逆理」とも呼ぶ。しかし、実際には「逆理」ではない(とさ
れている)。「非可算無限の存在」は公理的集合論内部の主張であるのに対して、モ
デルが「可算集合からできている」のはメタ的な主張であるからである。確かにそこ
には論理的矛盾はない。とはいえ、やっぱり何となくヘンな事態には違いない。
さて、タダスちゃんのつぎの言葉を読んで、はじめは、「やっぱそうはイカンだ
ろ」と思った。
> 空間座標xに実数を対応させるか,あるいは他の
>可算無限個の構造を対応させるかは,先験的かつ絶対的な基
>準があるわけではなく,どちらがより便利かという基準で判
>断すればいいということになる。
何故そうはイカンかというと、「空間座標」=連続体は非可算であるから、それに
「可算無限個の構造を対応させ」ることはできるにしても、そうしたらスカスカの穴
だらけになって、どの「可算無限個の構造」にも「対応」していない「空間座標x」
が残るはずであるからである。
しかししかし、ひょっとしたら「そうはイカン」ことはないのかもしれん、とか思
い付いた。で、その「思いつき、ないし妄想」をこっから書いてみる。(ちょっとメ
ンドな議論になるがあしからず)。
まず、「連続体は非可算」というのは何故か。いわずと知れたカントールの対角線
論法による。ここで、後の議論の必要上、周知の対角線論法を復習してみる。背理法
の仮定として、0 < x < 1 の範囲内のすべての空間座標 x に対して、可算無限 {1,
2, 3, ...... } が一対一対応できたとする。すなわち、0, 1, 2, 3, ...... にそれ
ぞれ対応する以下の無限小数展開が存在することになる。
(以下で、'a0' 等は 'a' に下付添字 '0' がついたもの等として読んでください)。
0 に対応: 0 . a0 a1 a2・・・
1 : 0 . b0 b1 b2・・・
2 : 0 . c0 c1 c2・・・
3 : 0 . d0 d1 d2・・・
・・・・・・・・・・
今、ある数列 をとって、
x0 = a0 + 1 if a0 < 9, x0 = 0 if a0 = 9,
x1 = b1 + 1 if b0 < 9, x1 = 0 if b1 = 9,
x2 = c2 + 1 if c0 < 9, x2 = 0 if c2 = 9,
x3 = d3 + 1 if d0 < 9, x3 = 0 if d3 = 9,
・・・・・・・・・・・・・・・・
と置く。すると、小数
x = 0 . x0 x1 x2 x3 ・・・・・・
は、 0 < x < 1 の範囲内にありながら、0, 1, 2, 3, ...... のどれにも対応しな
い。なぜなら、x は少数点以下第 i+1 位において i に対応づけられた小数と異なる
から。これは、背理法の仮定に反する。従って、仮定:
0 < x < 1 の範囲内のすべての空間座標 x に対して、可算無限 {0, 1, 2, 3,
...... } が一対一対応できる、
は成立しない。
従って、一般の空間座標 x に対しても、可算無限 {0, 1, 2, 3, ...... } は一対一
対応できない。
この周知の対角線論法をつらつらと見てみると、まったく同じ論法が別の所でも使
いうることに気付く。回帰関数 (recursive function) 、ないし Turing machine で
プログラム可能な関数、に関してである。
今、定義域 {0, 1, 2, 3, ......} で定義された任意の回帰関数 φ(x) に対し
て、集合 {φ(0) , φ(1) , φ(2) , ....... } を回帰的に可算 (recursively
enumerable) な集合と定義する。すると、回帰関数すべてからなる集合は回帰的に可
算ではない。
証明。背理法の仮定として、回帰関数すべてからなる集合が回帰的に可算である、
とする。すなわち、ある回帰関数 ψ(x) が存在して、
ψ(0) = φ0(x),
ψ(1) = φ1(x),
ψ(2) = φ2(x),
ψ(3) = φ3(x),
・・・・・・・・・・・
というように、回帰関数 φi(x) すべてを回帰的に数え上げる(1対1対応づける)
と仮定する。(ここでの議論は厳密には Godel numbering の手法を使わなければな
らないが、略)。
今、ある関数 χ(x) をとって、
χ(0) = φ0(0) + 1,
χ(1) = φ1(1) + 1,
χ(2) = φ2(2) + 1,
χ(3) = φ3(3) + 1,
・・・・・・・・・・・
と置く。すると、関数 χ(x) はいかなる i に対しても ψ(i) , i.e. φi(x), と
はならない。なぜなら、χ(i) = φi(i) + 1 not = φi(i) であるから。しかる
に、関数 χ(x) は回帰関数である。なぜなら、任意の i について、χ(i) = φ
i(i) + 1 であり、φi(i) + 1 を計算する Turing machine プログラムは仮定上存
在しているからである。
以上は、背理法の仮定に反する。従って、仮定:
回帰関数すべてからなる集合は回帰的に可算である、
は成立しない。Q.e.d.
ここで、カントールのと同じ対角線論法が用いられた。しかし、カントールの場合
のように非可算集合の存在にコミットしているわけではない。回帰関数の集合は、回
帰的には可算でない(「回帰的」と限定された仕方での1対1対応は存在しない)に
しても、たかだか可算集合でしかないことは容易に証明できる(証明略)。
ところで、<Church-Turing のテーゼ>によれば、直感的に漠然としかとらえられ
ない概念「計算可能な関数」を、「回帰関数」(数学的に厳密に定義された概念)と
同一視してよい。
回帰関数は、定義域も値域も正の整数 {0, 1, 2, 3, ......} として考えられるの
が普通であるが、値域の方を負の数および小数まで拡張することは容易であろう。
(多分? ザッと考えたところそう思うけど、実際やってみると何か予期しないこと
が起きそうな気もしてちょっと怖い・・・けど、まぁ、そう仮定して話を進める)。
たとえば、超越数 π なども、小数点以下任意の桁まで計算可能であるから、ある回
帰関数 Π(x) が存在して、
Π(0) = π の整数部分 = 3
Π(1) = π の小数第一位まで = 3.1
Π(2) = π の小数第2位まで = 3.14
・・・・・・・・・・・・・・・
という風にすることができる(はずである)。
このように、回帰関数によって定義できる数(負の数および小数を含む)の集合R
を考えてみる。Rは稠密である。ただし、上に示したように、Rは、無理数のなかで
も「ルート」のみならず超越数πなどまで含むから、有理数体よりもはるかに「目が
詰まって」いる。し かし、たかだか可算無限だから、連続体からみるとずっと「す
かすか」である。タダ スちゃんの言う「確定して誤差を含まない数」の候補として
このRはいかがかしら ん?というのが、拙文の「思いつき、あるいは妄想」である。
実際、Rに含まれる数 はすべて、任意の桁まで実際に「計算可能」(定義上)である。
それに対して、Rに 含まれない実数なんて、具体的に小数展開することが出来ない
(Church-Turing のテ ーゼを前提して)もんやし(そりゃ、どんな数や、一体?)。
さらなる妄想は、そもそもがこのRだけで十分なので、連続体なぞはイラんのでは
ないか、というものである。しかし、ここまで言い放つためには、やっぱり、たいぶ
ん問題がある。
1)そもそも、このRは体(加法・乗法が定義できる系)であるか?(これは言えそ
ーな気がする)。
2)このR上で、微積分学(などの連続体をめぐる数学)がどの程度に再現できるか?
実は、このへんでメゲて、これ以上考へる気力が萎えてしまふ。多分上に考えた程度
のことはとっくに誰かが考へているはず(現に「回帰関数と集合論」ちゅうような研
究があるのをどっかで見た気がする)で、ホントにRに連続体の替りが出来るくらい
ならもうちょっと騒がれてもいいはずで、ということは、多分、2)は既に否定的に
解かれているのであらふと推定できてしまふから(泣)。
それとも、そもそもが、Rを想定する過程で何か根本的な間違いでもしてるんやろ
か、ワシ!??(恐)。
いかがですか? ナカムラは,まだ,充分に理解していないのですが(というか,有限時間内に理解できるのだろうか?),読者諸賢からのご意見をうかがいたいです。
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